縄文を旅する3 北の縄文 北東北〜南北海道旅 27 2013.10.12(土)
網走市立郷土博物館分館
モヨロ貝塚館 北海道網走市北1条東2丁目 015-43-2608 7-9月無休 10-6月は月・祝休
1300年前のオホーツク文化時代の村の再現
交通 |
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「市内観光施設めぐりバス」の1dayパスを使うと安く便利です。 |
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札幌駅から都市間高速バスを利用すると値段は安く快適。所要時間は鉄道と同じ。特急・座席指定料金が掛らない |
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函館-札幌間以外の都市交通はバスが便利です。いや、北海道は高速バスが便利。 |
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見所 |
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女性ガイドが着用するお手製の、「オホーツク文化期の鹿皮の衣服」が素晴らしい。 |
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新築され近代的な博物館になりました。 |
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オホーツク人研究の最先端を展示、説明している。 |
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反省 |
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北方民族博物館見学の後に行きました。 私は本当に写真が下手ですね。 |
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写真に表しにくい展示や表示で、HP化が大変困難でした。 |
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目
次 |
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オホーツク文化について
中国王朝の北方交易
オホーツク人の南下
大和政権の東進
和人の北海道移住
擦文文化
混血アイヌの東進
オホーツク文化
トビニタイ文化での誤謬
00貝塚館 (地下)
01新築貝塚館と解説員
02貝塚復元展示室
モヨロ地域の歴史
オホーツク・
トビニタイ文化年表と
北方文化圏の変遷図
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貝塚復元展示室
03モヨロの民の目覚め
04モヨロ遺跡
05年表
14北の海の民
暮らしの道具1
14 01モヨロの家 大型住居を
14 02暮らしの道具1 土器
14 03刃物
15祈りのかたち 骨塚
16暮らしの道具2 |
20モヨロ人の神・クマ
熊を祭る
21モヨロ人の狩り
鳥獣狩猟
22モヨロ人の漁
25モヨロの復元住居
30流動する交易の民
交易の民モヨロ人
35砂丘に眠る北辺の民
モヨロ人の埋葬
40北海に活きる海洋狩猟民
貝塚の中の骨
オホーツク文化の骨角器
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45変わり行く北辺の暮らし
周辺の文化・終焉
靺鞨同仁文化
55遥かなりモヨロの里
墓域展示室
60出口展示
オホーツク海の生き物
巨大な帽子岩は、
私の祖父は |
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オホーツク文化について オホーツク人はニブフ人である 2015.05.04 追加記述
中国王朝の北方交易
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・シベリア沿海州では中国王朝の経済が活発化し、北方民族との交易が盛んになった。 |
オホーツク人の南下
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3c〜4c頃この交易に北方資源を提供していたニブフ (アムール川下流域に住み海獣狩猟を生業とする民族) は交易原料を求めて |
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サハリン・北海道東部の沿岸・千島列島に拡大し、海獣狩猟とアイヌや和人との交易を始めた。 |
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6cには西は奥尻島〜佐渡島。東は宗谷岬〜根室半島・釧路。更に、本来の目的地千島列島。また、アイヌとも交易し石狩低地からも土器が出土。 |
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つまり、宗谷岬を中継地に北海道の西・東海岸に活動域を広げていた。
このため、アイヌはこの地域から撤退南下した。 |
大和政権の東進
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5c後葉、アイヌと和人は東北地方太平洋側で交易をおこなっていた。日本海側をニブフに抑えられていたためである。 |
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7c中頃660年、大和政権の大船団が奥尻島を攻撃し西海岸のニブフ(オホーツク人)を駆逐した。 |
和人の北海道移住
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7c大和政権は交易の拠点を日本海側に移したため、岩手・八戸で交易に携わっていた人々は
みずからがアイヌ側となって交易権益を確保するため、交易アイヌと共に北海道石狩平野に移住し、アイヌと同化した。
交易拠点の変更は、アイヌ交易を独占していたのが東北在住古墳人であり、後にエミシと呼ばれる人々であった。
大和政権が直接交易し、富を得るためには太平洋側の交易地を閉鎖し、日本海側に移して牛耳る必要があった。
このため、それまで穏やかだった関係を、ことさら東北太平洋側をエミシ・蛮族として敵視し、対立した。
7c〜9cまで続いた移住の背景には東北エミシ(前期大和政権人・古墳人・弥生人・縄文人)と中央との対立があった。
653年の阿倍比羅夫の遠征は同時に日本海側を制圧。793〜810年の坂の上田村麻呂は太平洋側を制圧した。
この古代日本人との混血によってアイヌ世界に和人文化がもたらされた。 |
擦文文化
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7c〜13cまで北海道と東北北部では土師器を真似た擦文土器 (表面を擦った) 土器が用いられた。これは飛鳥〜鎌倉後半期にあたる。 |
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この文化は和人の大量移住によりもたらされた文化である。 |
混血アイヌの東進
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10c和人文化を吸収したアイヌも北・東に進出。 ニブフの拠点・稚内を制圧して海路を分断し、ニブフを孤立化させ、追い詰めていった。 |
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背景には大和から鉄器を手に入れることができ、鍛冶職人もたくさん移住してきた。ニブフは鉄器が足りず、鍛冶の技術もなかった。 |
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千島のラッコは大変高価な毛皮で、これを求めたニブフの海上交通は遮断された。 |
オホーツク文化
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オホーツク人は、毛皮を脳漿を用いてなめし、大きな壺を使ったが、アイヌは糞尿を用いる方法で文化に大きな差があった。
オホーツク沿岸で両者はやがて混血融合し、アイヌはニブフの高い文化を吸収した。この過程が トビニタイ文化 である。 |
トビニタイ文化での誤謬
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オホーツク人ニブフからクマ送りの祭祀を受け継いだとされている。 |
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列島の縄文文化にはアニミズムによるイノシシ送りの祭祀があり、山梨県金生遺跡では138頭分のイノシシの幼獣の下顎骨の祭祀跡が発見されている。 |
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北海道や伊豆諸島ではイノシシが生育していないが、本土より交易で入手してこの儀式を行っていた。 |
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苫小牧市柏原5遺跡からは40頭分のイノシシ骨が出土した。沖縄県武芸洞からも同様に出土している。 |
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アイヌと和人の交易は制限され仔イノシシの入手が困難となり、そのため、春先に冬眠熊の親を殺し仔熊を持ち帰って飼育する方法で行うようになった。 |
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熊のイオマンテの前にシマフクロウのイオマンテがあった。 |
引用アイヌ学入門
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00貝塚館
2013年5月開館だが、10月でも住居跡や正面入り口付近は工事中でした。
正面玄関から入れないため、ウロウロしていると、工事のおばちゃんに、駐車場のエレベータを使うように言われました。
エレベーター棟にはトイレも併設しています。
大脳は貪欲に酸素を欲する。ユーラシア大陸の |
東に広がるオホーツクの海風が、 |
北海道考古学を常に勢いづけている。 |
オホーツク文化の遺跡と司馬遼太郎の言葉 |
むろんそれらの全ては、 |
大正のはじめの米村喜男衛の モヨロ貝塚の発見から出発しているのである。
「オホーツク海道」 |
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01新築貝塚館と解説員 現在では日本一有名な解説員になりました。
この白い衣服は、この方が鹿皮を買ってきて手作りされたオホーツク人の衣服です。
腰には鈴まで付いていてよく再現されています。私も初めて見ました。(ん?始めて見たのに、よく再現されているって、、、おかしくないか。)
とても小さなエントランス
しかし次々と来館者 |
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日本の北辺の小博物館
埋もれそうな館を盛り立てているのは女性の衣装 |
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製作費5万円の衣装は
日本のどこの館にもない素晴らしい宣伝効果を生んでいる。
この解説員さんは現在日本一有名です。 |
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02貝塚復元展示室 B1F地下一階
モヨロ地域の歴史
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・旧石器時代 |
のオホーツク沿岸の遺跡は一箇所見つかっています。 |
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氷河期で、マンモスやオオツノシカを追って来た人々が古くからいたようです。 |
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しかし、 |
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この寒冷期には海退で海岸線は十数キロ沖合いにあり、遺跡はすべて海中に没しています。 |
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・縄文前期の |
海進により海岸線は現在よりも後退し、内陸部に遺跡ができ、以後、現在の位置に近づいてきました。 |
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この付近には縄文前期から住居の痕跡があり、人々が住んでいたことがわかっています。 |
オホーツク文化・トビニタイ文化年表と北方文化圏の変遷図
・モヨロ地域には縄文晩期から定住の遺跡があり、続縄文、擦文へと続いています。
・オホーツク文化人は砂丘の上に住居を構え、1000年間生活しました。
内陸の山地生活は行わず、あくまで漂海民の生活を好み、しかし、独特の文化を持っていました。
・内陸の山地にはアイヌ民族がいてその軋轢があり、内陸部に入れなかったのかもしれません。
いやいや、海洋狩猟は豊富な食料を与えてくれるが、陸上の狩猟は動物が極端に少ない。だから、陸に興味がなかった。のでしょう。
貝塚復元展示室 地下一階へ
地下には階段で降りる⇒モヨロ貝塚の歴史 |
貝塚発見史 |
遺跡発見から戦前まで |
昭和40年代の遺跡整備 |
平成の施設建設と復元整備 |
墓地の復元整備 |
甕が墓標となった墓地の復元整備 |
貝塚発見史 |
復元貝塚 |
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貝塚出土の配石遺構と被甕墓被甕墓が先で後に配石墓が出現する |
被甕と頭骨ちょっと顔をのぞかせている。愛嬌ですね |
貝塚大量の牡蠣殻は遠浅の海だったことがわかる。 |
貝塚 |
住居跡や墓地・正面入り口は工事中でした |
ネット検索では
被甕墓はヒットしない
○被甕葬、甕被り葬
○被甕
○甕を被せた |
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03モヨロの民の目覚め 貝塚の発見と調査
この時期、工事関係者や在野考古学者が遺跡の調査や発掘。保護を行うことが多く、
常呂遺跡も最寄遺跡もそのような人々によって世に出ました。
03発見者と出土物
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米村喜男衛考古学者、日本人類学会評議員 |
大正デモクラシー期 |
骨鍬
昭和20年代の発掘品農耕か土木工事か
農耕があったようだ |
オホーツク式土器 |
クマの頭骨、骨塚 |
無紋のオホーツク土器 |
貼付文土器
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見事な貼付文 |
土器に突起がある |
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04モヨロ遺跡 貝塚復元展示室の前のクマの頭部像。 オホーツク人はクマ信仰の民だったのですね。
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海洋民のオホーツク人が、なぜヒグマを神とするのか。 |
現代は、信仰や精霊と無関係に、動物像や人形がある。それが普通。 |
見事なクマの彫像しかし、ここの動物像は飾りや置物でなく |
全て動物信仰の対象・神だった。エジプト神殿の動物像と同じ |
全ては神像だったのだ。ならば土偶もすべて同じだ |
遠景に帽子岩
海から見る網走 |
モヨロ復元住居 |
当時は工事中
立ち入り禁止 |
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動物文土器 |
刻文土器 |
見事な彫刻の銛頭
儀式用か |
炭酸カルシュウムの豊富な土地の人骨 |
乱氷帯が押し寄せてくる冬の流氷 |
モヨロ遺跡ジオラマ移住民は、ベトナムでも山口でもモヨロでも、砂丘上に暮らす。
先住者からの襲撃や排撃に備え、また、逃亡しやすい。 |
モヨロ人の歯はすり減っていない。
歯で皮なめしする為、女性の歯は摩耗する。ここではその報告がない。
墓地は男専用だったか
縄文人は泥まじりの食事で擦り減ったか。だ。 |
オホーツク文化の刻文期について |
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05年表 オホーツク文化と日本と世界 オホーツク文化の時代背景
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モヨロ貝塚期を |
オホーツク文化のムラ |
オホーツク文化期 |
樺太〜東北海道〜千島の遺跡群 |
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06ビデオ解説
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住居跡 |
海洋狩猟民一家一族で狩猟漁労 |
オホーツク文化期 |
墓地墓域 |
オホーツク文化圏 |
左二本は切先が黒曜石と骨器の組み合わせ銛 |
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オホーツク式土器 |
刻文土器 |
貼付文土器 |
動物文土器 |
オホーツク式住居復元 |
粘土のたたき床と骨塚 |
住居内に骨塚がある |
発掘された骨塚 |
クマの神像土製品 |
牙製の婦人像 |
墓域 集団墓地 |
被甕仰臥屈葬の墓 |
被甕葬の発掘 |
縄文と同じ仰臥屈葬 |
なぜ甕を被せたのか |
土饅頭はやがて平らに潰れ、甕が墓標に |
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14北の海の民 山の神と暮らす -暮らしの道具-
1401モヨロの家 大型住居を
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1402暮らしの道具・土器
【日常作業具】
土器・ナイフ類・裁縫道具・堀具・斧など |
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【狩猟・漁労具】
弓矢・銛・釣針 |
【装身具・呪具】
玉・歯牙を貫通孔し |
動物などを丹念に彫り込んだもの |
【煮る炊く貯める】
オホーツク土器の役割 |
甕形土器 |
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1403刃物
オホーツク人は交易の民であった。樺太経由でシベリアで中国人と。稚内から南下して秋田県付近まで、交易の旅をした。
鉄器や装身具、布はその時に手に入れた。
鉄器の刃物曲手刀子・砥石・刀子・掻器 |
掻器・・なめす道具 |
モヨロの道具の使い方 |
刺突具・刀子・骨針と針入れ |
削器・曲手刀・砥石 |
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15祈りのかたち 骨塚
住居出土の動物骨 |
オホーツクの祈り |
動物形土製品モヨロの家1
熊の頭骨は家の最奥
熊の四肢骨・海獣骨は入り口
キツネなど小動物は側壁
頭骨に穴を開ける儀礼 |
種子 大麦・キビ・アワモロヨの家2
骨塚のそばには
動物をかたどった土製品
鍛冶に用いられた土器片
大麦などの種子
これらが祭祀の様子 |
鍛冶に使われた土器 |
一族一統が一つ屋根の下に住まい、共同生活共同作業を通して心を一つにする拠り所としての信仰の姿である。 |
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16暮らしの道具2
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祈るモヨロ人は、水鳥文の土器や、海獣彫刻の骨角器を使用し、骨塚に祈る人々でした。 |
装う動物の骨牙の首飾り、大陸交易の帯金具などの装身具 |
装う 祈る |
装身具は
魔除けと身分や富を表すものでした |
動物装飾のある道具 |
骨製の匙と刀 儀式用骨製スプーンと骨小刀 |
刻文期のオホーツク土器動物文土器 水鳥
水瓶だったのかな |
貼付文土器 |
オホーツク式土器
貼付文期
いろいろな動物が |
伐る掘る鉄斧・石斧・骨斧・骨鍬
食料の栽培もしていた |
伐る掘る |
骨鍬・骨斧 |
鉄斧・石斧 |
被せ式鉄斧交易品 |
貼付文 オホーツク土器 |
貼付文土器 抽象 |
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20モヨロ人の神・クマ 熊を祭る オホーツク文化
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クマの足形文土器 |
クマの頭部の土製品 |
モヨロの人々は、クマを最高の神として崇めました。家の中にはクマの頭骨を幾つも重ねた「骨塚」を設け、粘土や骨でクマをかたどった造形物や、足型のスタンプが付けられた土器などを造り、祀っていました。
モヨロの人々の暮らしは、クマへの祈りと共にあったようです。 |
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21モヨロ人の狩り・鳥獣狩猟 網走川の河口には多くの水鳥が渡って来たでしょう
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22モヨロ人の漁 -海洋漁労-
釣り針や網。銛などで行なわれた。 釣り針は組み合わせ式で巨大で頑丈。海の豊かさを示す。
回転式離頭銛
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海洋漁労組み合わせ釣針・離頭銛など |
巨大な結合式釣針
湧昇流の海は大変豊かです |
少し前までは畳二枚分ほどの巨大オヒョウが普通に釣れていた |
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網漁はオホーツク人だけの漁法でした |
石錘と絵付き釣針豊漁を祈った絵なのでしょうか |
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海獣狩猟モヨロ人は
海獣ハンター |
骨器を主体に鉄器や石器をも組み合わせた銛。 |
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各種の銛 回転式 |
回転式離頭銛 |
回転式離頭銛の仕組み |
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25モヨロの復元住居
祈りのかたち 見立て遺構
住居は砂丘の上に作られたもので、長辺12mの五角形の巨大なものである。
5家族20〜30人が同時に居住したと考えられている。
室内の最奥にクマの頭骨を重ねた骨塚をはじめ、室内外に骨塚を作っている。
柱はトドマツ。屋根はミズナラの樹皮張りで、室内は板葺き。壁は矢板で作られている。
室内の真ん中には炉が切られている。
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見立て遺構 動物崇拝の特殊な祭壇
三本の骨鏃と変わった形の石ころがそれです。 |
復元住居とても広く屋根も高い |
樹皮葺の屋根樹皮の上に土を載せる |
矢板の壁に板敷のベッド特殊で進化した構造です |
小動物や熊の四肢の
骨塚 |
住居最奥の熊の骨塚最奥が上座ですね |
食糧庫など |
粘土の貼り付け床 |
過酷な土地では強力な結びつきがなければ生きていけない。 |
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30流動する交易の民 -交易の民モヨロ人-
オホーツク人は主に樺太を通じてシベリアと交易し、高価値の製品を手に入れていた。
本州との交易は、後になってアイヌ人に交易路を断たれ、やむなく増えていったものである。
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【大陸から】
鉄製品=鉾・曲手刀子
青銅製品=帯金具・鈴
錫製耳飾り 大麦種子 |
【本州から】
鉄製品=蕨手刀・斧 |
【モヨロから】
毛皮類=クマ・オットセイ・キツネ・クロテン |
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35砂丘に眠る北辺の民 -モヨロ人の埋葬-
途切れることなく千年も続いたオホーツク文化では埋葬もまた北方文化なのでしょう。
ベトナムの先史文化や山口県土井が浜でも、砂の上の墓地は渡来人のもの。
ふるさとの方角に向かって埋葬される。ベトナムでは甕棺に埋葬、モヨロでは甕を被せて墓標とした。
モヨロ人は北方エベンキ人の顔をし、女性で160pの大きな体格である。
牙製婦人像は、信仰の対象かは不明だが、北部ユーラシアでは旧石器時代から牙製女性像が作られている。
彼らの信仰は、クマ崇拝である。
交易で得た大量の鉄器が副葬品となっており、また、死者に送るために壊して(道具の命を絶って)供えられたりしている。
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モヨロの埋葬・住居近くの共同墓地に土壙墓 |
被甕墓・仰臥屈葬北西頭位
・副葬品 ・被甕墓
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被甕の中その他に ・木かく墓
・配石墓などもある |
モヨロの配石墓木隔墓や配石墓は特殊な人の墓 |
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墓の広がり危険な北辺の漁労生活。埋葬されることは幸せ。 |
住居と墓地の見取り図 |
骨が語るモヨロ人 |
モヨロ人の特徴 |
モヨロ人の人骨素人目にもすぐわかる頭骨の違い。
手足の長い全身骨格。
縄文人とは全く違う。 |
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牙製婦人像が語るこのような像はシベリアでは旧石器の遺物 |
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墓の副葬品男-鉄製刀や石鏃など狩猟具
女-小刀や針、装身具
その他-大麦、キビなど |
甕・石鏃・刀子・鉄鉾 |
曲手刀子・鉄針鉄針の副葬品は女性の墓 |
曲手刀子・鉄針
・キビの種 |
鉄針 |
石鏃・曲手刀子 |
石鏃・刀子・鉄鉾 |
壊される副葬品 |
壊した副葬品土器には穴を開け、鉄器は折り曲げて副葬する。 |
被甕 石鏃
・折られた鉄刀 |
鉄鉾、人骨、錫製耳環 |
耳環 鉄針 |
曲げられた鉄鉾、鉄刀 |
副葬される金属器 |
副葬される金属器被葬者の地位で副葬品量が変わる。シャマンを中心とする呪術社会。 |
特殊な地位の被葬者の墓 |
鉄刀 |
墓域 |
保守的な葬送儀礼に地域差。長く孤立したためか |
地域毎に流行があり、それがいつか固定した |
ようですね |
モヨロ人の職業病 |
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40北海に活きる海洋狩猟民 -貝塚の中の骨-
・オホーツク文化の骨角器
狩猟には、加工しやすく入手簡単な骨角器が最適。
・オホーツクの海獣 オットセイ・ゴマフアザラシ・ワモンアザラシ・アゴヒゲアザラシ・トド・クラカケアザラシ
貝塚の骨 カモ サケ カキ アホウドリ ウニ ニシン シジミなど
・食べられたオホーツク犬
オホーツク人は犬と豚を飼育していました。
この犬は北方系です。アイヌ犬は南方系です。
アイヌや縄文、台湾先史時代遺跡からも埋葬された犬や猪の骨が出る。 が、オホーツク人は食べていたようだ。
植村直己氏の著作にも動けなくなったエスキモー犬を食べる話が出てくる。
ペットではなく、家畜であり、狩猟道具であり、食料である。 極限に生きる者にとっては至極当然のことだ。
北の海は豊かであり、天候と技量がよければ、豊かな幸が得られる。
モヨロ人の生活は少し前のエスキモーと変わらない。
骨で作る骨角器
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モヨロの人々の道具の多くは、彼らが捕らえた海獣や鳥の骨を材料にして作られたものでした。
作る道具に合わせて骨の部位を有効に使い分ける工夫が見られます。鯨などの大きな骨は、適当な大きさに切り出して使いました。
時には出来上がった道具を補修したり、別の道具に作り変えることもありました。 |
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骨で作る骨角器 |
骨角器の製作 |
骨角器の製作工程 |
頑丈で加工しやすい骨角器 |
現代のプラスチックのようなものだ |
鯨骨は大きく良い材料だったでしょう |
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貝塚断面 |
貝塚出土の食糧動物 |
タッチ可能な遺物 |
貝塚の発掘 |
植物食の痕跡糖質・脂質・澱粉質 |
食べられていた犬犬は、愛玩動物ではなく、経済動物だ。 |
カモ・カモメ・アホウドリ・ウミガラス・ウ・アビ・オットセイ・アザラシ・ウグイ |
鳥獣の絵と骨
ニシン・カレイ・クジラ・ヒラメ・サメ・ボラ・カサゴ |
サケ・イトウ・タラ |
大変多種で豊富な食料源でした |
舟型土器と骨鏃貫通のオットセイ頭骨骨族が貫通するとは剛腕の射手 |
頭骨の中に残っているのが貫通骨鏃 |
一年を通して豊富な食材が得られた |
生活カレンダー |
動物食が中心で、植物食は入手困難。
生肉、干し肉でビタミンを摂取 |
アゴヒゲアザラシ・オットセイ・マガキ・ヒメエゾボラ貝・エゾバフンウニ・エゾイソシジミ・ヤマトシジミ |
サラガイ・ウバガイ |
マガレイ・クロダイ・サケ・イトウ |
クロメヌケ・ニシン |
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銛頭は黒曜石 |
銛の柄はしなやかで弾力性のある広葉樹 |
アザラシのミトン |
足元もブーツ |
アザラシの革ひも |
狩猟は一家族で計画的に行われた |
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45変わり行く北辺の暮らし -周辺の文化・終焉-
オホーツク文化は北からの渡来文化である。
アムール川流域に住む海洋狩猟民族が、靺鞨の勢力拡大に伴い、
弾き出されて、樺太〜北海道〜千島列島に移動してきた。
擦文文化期となり、鉄器で武装したアイヌの東進によって、樺太との交通路を遮断され
交易品の供給を立たれ、孤立したオホーツク文化人は、アイヌとの融合を図らざるを得ず、
やがて、折衷文化となるトビニタイ文化が興る
この弱小海洋漁労・狩猟民と森林狩猟民の共生は、アイヌ人に分がありそうに見えたが、
オホーツク文化人のほうが高い文化を持っていた。
従ってこの文化の重要性は、アイヌ文化に精神文化をもたらしたこと。
特にクマ信仰をもたらしたことは大きい。
北からの渡来文化 |
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靺鞨に負けた民族がオホーツクに進出か |
靺鞨との比較 |
アムール文化同様の習慣を持つ民族 |
アムール中流域からの民族モヨロ人=靺鞨 |
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オホーツク沿岸の文化
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モヨロ人の消長 |
鉄器を得て勢力拡大のアイヌに追い詰められたが、 |
アイヌより高い精神文化を持っていた。 |
ために文化融合し小さな接触が |
大きなアイヌ文化を変えることになる。それは、 |
アイヌのクマ信仰文化の継承。
少数のオホーツク人が優勢多数のアイヌ文化を、根本から変革させた。
これが
トビニタイ文化 |
靺鞨同仁文化
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ネット上には論文や解説がなく、上の図表が日本語では唯一の手がかりです。中文の論文は多数検索されます。
モヨロ人、オホーツク文化人、は、靺鞨、エベンキ人、ツングース系民族、エスキモーのことで、靺鞨の拡大によって生活域を広げた人々でしょう。 |
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55遥かなりモヨロの里 -墓域展示室- 館は墓域の中にあり、展示は墓域そのものです
特徴的な埋葬方法 |
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被甕墓・配石墓・木かく墓。土壙墓の大きさ(たて120〜140 幅60〜70) 北〜西向き 仰臥屈葬 |
副葬品 |
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石鏃 鉄鉾 刀 |
墓域展示室北辺の動物が見てる |
写真は以前の展示館 |
展示全景 |
解説 |
地表下40〜50pに
被甕墓や配石墓
北西向き。仰臥屈葬で埋葬 |
墓域見取り図 |
これ、実際の墓域墓地ですね |
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こんなに長く残る骨はしっかりした体格だったんでしょう。
骨から病痕の報告なしは、みんなすこぶる健康で一生を終えた |
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60出口展示 オホーツク海の生き物
ミュージアムショップ
アカボヤ・エゾバフンウニ |
ケガニ |
オニカジカ |
シマソイ |
チカ |
スナガレイ |
アツモリウオ |
イトマキヒトデ |
モヨロ土器 |
土器片ペンダント |
クマの彫刻 |
モヨロの礫と古壺 |
ミニチュア土器 |
クジラのひげ |
復元住居跡現在、立入可 |
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網走川河口の網走港この景色を見ると |
帽子岩なぜか悲しくなる |
網走港の絶景 |
港は河口に防潮堤を付けただけのもの。
漁船程度の船しか入れない。 |
私は「最果ての地」に行ったことがなかった。
ここがそうなのかと思いました。 |
巨大な帽子岩は、
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過去の巨大津波で、海底から運ばれて来た物だ。 この岩を打ち上げるほどの津波とは。想像できないほどの巨大さだ。 |
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リンク先194ページ北海道における津波に関するアイヌの口碑伝説と記録 北海道立地質研究所* 清水康博 |
私の祖父は
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明治・大正・昭和・戦後にかけて、南は鹿児島から、北は北海道の果てまで、何度も何度も旅をしました。一年の半分は講演旅行だったそうだ。
南の縄文旅1を終えた現在。やっと祖父の第一回目の日本一周旅に繋がった気がします。
祖父は、旅先で膨大な数の人々と繋がりを持ち、いつまでも交流を続け、最後には、日本中から弔電が届いていた。
私はほんの少しの人々と僅かな繋がりしか持てないが、仕事が違うから仕方ないにしても、
なにか、私の旅好きは、祖父の隔世遺伝の感じがする。 2014.04.08 |
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